あらすじ
今から,300年ほど前(江戸時代・正徳元年)に本当にあったお話です。宝永7年(1710年)は4月の雨を最後に全く雨が降らなかったそうです。田畑はからからに乾き,自分の家には食べるものもない有様です。それなのに,税金は一気に5倍にも跳ね上がり,税金を納めない村人は厳しく罰せられました。村人はどんなに働いても,この重税を納めることができません。庄屋(今の町長にあたります。)であった貞之丞や村役人は,代官(役所の役人)にあらゆる手を尽くして,一生懸命にお願いしましたが,代官は聞き入れてはくれませんでした。村人たちの不満と怒りは,もう限界のところまできていました。
正徳元年(1711年)8月13日の夜,およそ千人の村人たちが松明をともし,むしろ旗を押し立て,棒や鍬や鎌などを手に,我先にと古見の川原に集まりました。その知らせを聞いた貞之丞は,矢のように古見の川原にとんできて,不動明王のように眉の毛一つ動かさず,村人たちの前に立ちふさがりました。貞之丞は威厳と愛情を持って,命がけで村人たちを押しとどめました。この時,貞之丞はある決心をしていたのです。
正徳元年8月25日,お国家老(殿様の大事な家来)の家の近くに,貞之丞の姿はありました。やがて,家老の乗った御駕籠がきました。すると貞之丞は,御駕籠のそばに駆け寄り,「お願いでございます。」と竹の先に挟んだ願書を差し出したのです。(この行為を直訴と言いますが,この当時,身分の低い者が身分の高い人に対して直接お願いすると言うことは重罪とされていました。)お供の者がむらがり,取り押さえようとしましたが,貞之丞は少しもおそれずひるまず,何度もお願いし,ついには御家老が願いを聞き入れてくれたのです。このおかげで,一宇の村人たちの税金はもとどおりになり,人々の命は救われました。しかし,貞之丞は直訴という重罪を犯したため,徳島市の川原にて打ち首の刑になりました。また,貞之丞の家族も島流しの刑になりました。村人たちは貞之丞の死を大変悲しみ,貞之丞の御霊をおまつりして,貞之丞のご恩に感謝しました。自分と家族の命を犠牲にしてまで村人を救った谷貞之丞の業績は,今もこの一宇の地に語り継がれています。
