第一章





【 1 】

久々に快晴だった。しかもここ松山でも稀に見る快晴で、空色の絵の具をキャンパスにぶちまけたような、そんな快晴だった。

渇水に悩まされる松山にとっては恵みであるはずの雨だが、ここ数日降り続いていた弊害として、湿気を伴ったむしむしとした暑さを連れてきていた。じめじめとした梅雨の時期もさることながら、むしむしとした夏の日も好きになれるものではない。

もちろん、からっとした暑さは嫌いではない。体は活動的になって気分もいいから。だが、蒸し暑い、という次元になってくると、筋肉が解れるどころか、緩みきって使いものにならず、もちろん頭だって働かない。そのため、宿題など進んでいるものではなかった。夏休みが始まってからまだ一週間も経っていないが、宿題発表から夏休みが始まるまでに嘘のように進められていた宿題は、当の夏休みに入ってからは文字通り手付かずで放置されている。

 朝の十時ともなると、その熱気は早朝の爽やかさが嘘のように気持ちの悪いものとなって、スラックスは汗でべっとりと足に貼りついていた。そもそも、総体も終わり部活から引退したというのに、なんでまた夏休みに登校しなければならないんだ。

 そんなことを思っても仕方がなかった。自分が了承してしまったことなのだから、今更ボイコットするわけにもいかないし、そんなことをすれば後でどうなることか……。

 多村秋平はそんなことを考えながら、ブリジストン製の自転車のペダルを漕いでいた。国道の側道を真っ直ぐに走ると、やがて高速道路が立体交差している場所がある。そこに辿りつくと、ハンドルを切り、高速道路の橋桁に添うように白線内を突っ走った。宿題に気を取られ、約束を忘れかけていたため時間的余裕は全くない。

 すぐに信号が見えてきたが、運良く今赤に変わった。つまり、この道を横断できる。多村はペダルに更なる力を込め、自転車を加速させると、信号の交差点を右に曲がり、時計に目をやった。約束の時間まであと三分しかない。

 左側に目をやると、広い田んぼの向こうに高いフェンスが聳え立ち、その奥に白い校舎が見えた。多村の通う中学校の校舎だ。田んぼには青々とした稲の葉が揺らぎ、その上を掠めるように風が吹き抜けた。

 残り二分になろうかという時に、多村は傾斜のきつい西門を自転車ごと走り抜け、運動場の端、コンクリートで舗装されている場所の自転車置き場に自転車を降りながら駆け込んだ。前籠から学校指定のバッグを取り出し、自転車にきっちり鍵を掛けると、休む間もなく、中校舎と南校舎の間にある殺風景な靴箱に駆け込んだ。

 この学校は三つの校舎を持っている。そのうち、二つの校舎に挟まれた中校舎というのが特別教棟で、理科室や調理室、音楽室などの特別教室がある。ここに多村の目的地図書室もある。ただし、最上階の四階だ。

 多村は中校舎の階段を駆けあがった。四階の西側、階段からトイレを挟んだ所のドアを開けると、多村はその場に座りこんだ。

「おはよっ」

「あぁ……おはよう」

 多村は苦笑いを浮かべながら顔を上げた。セミロングの髪を揺らしながら笑っているのが月原瑞穂だった。彼女を一言で表す言葉を思い浮かべれば、元気がいい、おてんば、男勝り、じゃじゃ馬、暴れ馬……とだんだん悪化していくので止めた方が懸命だ。

「おっそいぞー」

 多村はまだ息が落ちつかなかったが、そう言われて言い返さないわけにはいかなかった。

「待てって、間に合ってるぞ」

「へ? 時間過ぎてなかった?」

 月原はきょとんとして手を止めた。もともと、顔立ちが整っており、目が大きく、そんな表情になると正直かわいらしい。そんな表情を見ていると、いつもの月原の性格を忘れそうになる。

「ギリギリじゃだめだめ。ちゃんと早めに来ないとね」

 月原の横でもっともなことを言っているのは永井京子。月原や多村より背は低く、セミロングの髪を一つに結っている。

「間に合ってんだから、いいだろー」

 多村はそう言って立ち上がると、長机とセットになっている椅子にバッグを置いて、その横に自分も座った。机は三列に並べられているが、月原たちの座っている南窓側の机と真中に置いてある机の間で、扇風機が忙しそうに首を振っていた。多村はその前の椅子に移動すると、ため息をつきながら扇風機に顔を近付けた。

「で、今日はなにすりゃいいの?」

 そう言って多村が振り向くと、月原が微笑んだ。月原がこういう笑みを浮かべる時は、なにかを企んでいる時か、そうでなければ、なにかこちらがまたため息をつくようなすばらしいニュースを用意しているか、そのどちらかだ。とにかく、多村にいい予感はしなかったということだ。

月原は立ちあがり、その場にしゃがみ込むと、「よいしょっ」と言いながらなにかを抱えあげた。

「これね」と言って月原は抱え上げた本の山を多村の正面にドスンと置いた。そしてその頂上をポンと叩く。

「これにこのシールを貼って、できたらその番号の本棚の所まで運んでって。もちろん、あたしたちが貼ったぶんも」

「ゲストに肉体労働させんなよ」

「あんた男でしょ? しっかりしな」

 妙におばさん臭いことを永井が言い、「ね?」と横に座っている玉田優美に話を振った。玉田と永井は多村のクラスメートで、玉田の方は永井と比べると幾分落ちついているものの、活発には変わりなかった。しかしその玉田さえも、「そうかもね」と言って笑い声を上げた。

 そもそも、なぜ多村がこんなことになっているかというと、実を言うと多村は、慢性的な金欠病に侵されている。要するにお金がないのだが、そのため、自分が読みたかった小説を購入できなかったのだ。ところが、偶然その本を月原が買っている所に遭遇し、借りる約束をしたというわけだ。しかし、愚かなことに、多村は後先考えず借りる約束をしてはしまったためにここにいる。つまり、多村はその小説を借りたわけだが、その変わりに図書委員の仕事を手伝うという交換条件を飲まざるをえなくなった、というわけだ。

「なんなら、もっと増やしてあげようか?」

 月原はそう言って椅子に座る前に、その横に積みあがっている本に一度わざとらしく目を向けてから多村に微笑んだ。

「はい、すみません、オレが悪うござんした。お許し下さい」

 多村は苦笑しながら山積みの文庫本たちに向き合った。多村はどうせならすぐに仕事を終わらせて帰ろうと思った。

約二時間半で、山を二つと半分程作業を終了したところで次の小説に手を伸ばした。しかし、その小説を開いて少し読み始めると、なかなかおもしろく、少し読みいってしまった。それを見た永井が、いかにもからかってやろう、という目で見た。

「へぇ、多村って恋愛小説とか読むんだ」

 さらに、そう言いながら永井が、多村の机に運べと言わんばかりに本を積み上げた。

「それって三角関係で、最後はヒロインが死んじゃうやつだよね」

 月原が柄にも似合わず少し哀しげな声で呟いた。

「三角関係とはちょっと違うんじゃない?」

「えー? そうだと思うけど……」

 玉田と永井が言い争っている。三角関係は三角関数より難しい、と従兄弟が意味深に語っていたのを思い出した。三角関数がなにか分からないから見せてもらったものの、アラビア数字が宇宙語に見えたのしか覚えていない。

「んなことどーでもいい。さっさと片付けて帰るぞ」

「あんたねぇ、乙女の甘酸っぱい話題に、どーでもいいはないんじゃない?」

「お前らに甘酸っぱい話題ほど似合わないもんもないね」

 そう言うと、先ほどの表情がどこかに消えてしまった月原が気色ばんでいた。

「お前らって、あたしも入ってる?」

「そりゃそうだろ。いくらオレがバカでもお前が乙女に見えるわけは……いてっ」

 多村が言い終わる前に月原の蹴りが向うずねを直撃していた。なまじ運動神経のいい月原の蹴りは、彼女自身が思っているよりもずっと鋭い。というわけで、痛いのだ。しかも、加減が足りない。

 多村はじんじんと痛む足を引っ込めた。その時、外からウーウーという、正午を示すサイレンが鳴り響いた。

「じゃ、今日はこの辺にして帰る?」

 月原がそう言いながら目をぎゅっと瞑って手足を伸ばした。それを見た永井と玉田が「そうね」と同調すると、椅子から立ち上がった。

「これはそのままでいいわけ?」

「うん。どうせ明日も来るから適当にほっぽっといて」

 もう呆れたという状態を通り越した多村は、まあそういうもんか、と開き直り、持ち上げた本の山を机の上に戻して整えた。

「閉めるぞー」

 永井がそう言って笑っているのを見て、「ちょっと待て」と言いながら、多村はバッグ持って急ぎ足でドアをくぐった。

「そうだ、月原。あの小説、いつ返せばいい?」

 月原は意表をつかれたように、「ああ、あれね」と答えた。

「また明日と夏休みの終わりにこれの続きするんだけど、また手伝ってくれる?」

 つまり、その時に持って来いという寸法か。多村はそう思いながらも、宿題のラストスパート時期と重なってもどうにかなるだろう。そう考え、しぶしぶ頷いた。

「しゃーねぇ、その時に持ってくりゃいいんだな?」

「うん。ありがと」

 月原がそう言い、玉田が付け加えた。

「今度は遅れないようにね」

「うん。じゃあ、オレは先に帰るから。バイバイ」

 そう言って多村は階段を下って行った。

 一階まで降り、靴箱で通学用の白いスニーカーを履いた。靴紐が解けていたため、結びなおしてから、校舎を出た。

 自転車の鍵をポケットから取り出しながら、靴箱から真っ直ぐの自転車置き場の屋根へと入った。そこを通り抜ける風は炎天下の熱風とは違う。しかし、それにずっと浸っているわけにもいかないので、四台しか停まっていない自転車の中から、自分の一台を探し出して鍵を外した。

「多村」と呼ばれて振り返ると小走りに駆けて来る永井がそこにいた。

「あいつらは?」

「あいつらはゆっくり来てる」

「で、なに?」

 多村はそう返答しながらも自転車のスタンドを上げて、左足だけペダルに乗せた。

「お前、月原のこと好きなの? 初恋?」

 いきなりの永井の言葉に、「はっ?」と自分でも素っ頓狂だと思う声を上げてしまった。

「なんなら応援するけど?」

 永井は笑っている。しかし、まんざら冗談で言っているようではないようだ。

「冗談だろ」

「えー? あいつはいい奴だと思うよ。おてんばやけど、あれで結構優しいし、あたしなんかより実はずっと女の子っぽいし。あれじゃん、スマートでかわいいしさ」

「バーカ。お前が工藤好きなんとは違うわ」

 多村はそっけなくそう言って「もう終わり?」と聞いた。工藤政治は多村の色々な点でライバルにして、親友だ。ユニークで、精神年齢は四十五歳という複雑なキャラとなぜ自分が気が合うのかは分からないが。

「うそ。絶対思ってる。別に好きってことは悪いことでもなんでもないんだし、あいつはいい子よ?」

 永井は少し真剣な表情になった。なにを言い出すのかと思えばそんなことか、と思っていた多村だったが、その表情の変化に少し戸惑った。

「自分に正直んなりなよ。もう半年しかないんだから」

 多村はそう言われて永井の顔から目を離した。

「その言葉、お前にそっくり返すわ。それに、オレの初恋は済んでます。じゃ、オレは忙しいから。お先に」

 多村は右足で地面を何度か蹴り、勢いをつけてからサドルに飛び乗った。背後で永井がなにか言っていたが、もう気にはしなかった。

 確かに、友人以外の何者でもなかった月原が自分の中で変わっていっているのかもしれない。それでも、友達は友達でそれ以外の何者でもない。今は、自分の本当の気持ちなんて分からないが、どうであってもとにかく、そう決め付けていた。

 いつかは忘れてしまうと誰もが言う。忘れてくれと言う。それでも、忘れられない。忘れてはいけない。

 湿度が下がったのか、吹き付ける風は爽やかな感じだった。川原の花壇に植わっているひまわりは、背伸びをするかのようにしっかりと立っている。しかし、どんな元気な花でもいつかは枯れてしまう。この夏の風物詩、ひまわりもそれは避けられない。ひまわりのようなあいつも、それは逃れられなかった。

 変なことを考えるのは止めよう。多村はそう思ってペダルを漕ぐ力を強めて、ひまわりから遠ざかった。





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