第三章





【 3 】

「お久しぶりね」

 福原の母親、美智子さんはそう言って微笑んだ。今更だが笑窪のでき方がよく似ている。そして、多村は迷惑そうでないのにほっとした。玄関で自分を見る目が大きく見開かれた時には逃げ出そうかと思った。

「ごめんなさい、散らかってて」

 多村が、「いえ、こちらこそ突然お邪魔して」と返すと、やはり福原の母は微笑んだ。

「ありがとう。会いに来てくれて。渚も喜んでると思うわ」

 リビングのソファを勧めれたが、多村はカーペットの上に正座し、村上も同じだった。

「志保ちゃんが案内してくれたの?」

 俯いていた村上は多村の方へ顔を向け、「いえ、多村君がすぐそこまで来とったさかい」と言った。

「こちらで、霧島君の家に泊めてもらっているので、彼から聞きました」

 福原の母親は、「そう」と呟くと立ち上がって後ろの引き戸を指した。

「あの子、この和室だから…」

 福原の母親が立ち上がるのと同時に、正座を崩した多村も立ちあがり、村上もそれに続いた。

「志保ちゃん、後で多村君に渚の部屋案内してあげて」

 引き戸がすっと引かれると、八畳ほどの和室が現れた。その奥の仏壇には、お菓子やテニスボールが供えられていた。

「渚……」

 多村は思わず呟いた。仏壇の上にあるモノクロではなくカラーの写真。その中に、屈託のない笑みを浮かべている福原渚がいた。

 多村は仏壇の前にガクッと崩れ落ちた。肩の力など完全に抜けてしまっていた。

 葬式にも出れず、墓参りもできず、ないと分かっていながらも心のどこかで、渚は生きているかもしれないと思い続けた。それが、この瞬間に打ち砕かれた気がした。最近では思い出す時も落ち着いていられるようになっていたのに、瞼の裏のぼんやりとした笑顔よりも、そこにあるはっきりと動かない写真の笑顔の方が、多村は見たくなかった。

 数分後、村上に声を掛けられて、多村はなんとか立ち上がり階段を二階へ登った。「ここよ」と言われた多村は村上にノブを指差され、一瞬硬直した。

 多村は恐る恐る、ドアノブに手を掛けた。自分の汗ばんだ熱い手とは逆に、そのドアノブは無機質に冷たかった。

 ドアを開け、落としていた目線を上げた。

「渚……!」

 そこには確かに渚がいた。無邪気に笑っている渚がいた。しかし、瞬きをした瞬間に彼女は消え去り、その場所には椅子があるだけだった。残酷にも、冷静な多村の頭は、自分自身の作り出した幻だと気付いた。

 それでも、多村は渚の幻を見た椅子に近付き、彼女に触れるかのように椅子の背もたれにゆっくりと触れた。それからすっと手を伸ばしてみたが、そこにはやはりなんお感触もなく、虚空ばかりを掴んでいた。

 部屋の中をゆっくりと見まわした。思っていたより雑然とした部屋で、渚の幻想と入れ替わった椅子は、先ほどまで彼女が座っていたかのようだった。開いたままの問題集、積み重ねられた教科書、転がっているボール、立て掛けられているラケット。

 待っていれば帰ってきそうな気がする。少し出掛けていると言われれば、なんの疑いもなく信じてしまうだろう。ここだけは時間が止まっている、違う空間だった。ただ、そこに渚はいない。

「そのままにしてあるの?」と多村が聞くと、「渚がいつ帰って来てもいいようにね」と言う村上の顔は穏やかだった。言葉ではそう言っても、村上は現実を受け止めているように見えた。

「実は……渚から言付かってるもんがあるんや」

 そう言って村上は机の一番上の引き出しをゆっくりと開けた。「確か、ここに」そう言いながら少しガサゴソと音を立てて、「ほら、あった」と引出しを直して多村の方を向いた。

「渚が、多村君がもし訪ねてくるとがあったら、渡してって言ってた。あたしにもあったよ。霧島君にも」

 多村はその封筒を受け取った。正面に、『多村秋平様へ』と丁寧な字で書いてある。裏を見ると左隅に,『福原渚より』と記してあった。

 多村は封筒を開けようとテニスボールのシールに爪を掛けたが、思い留まった。

「やっぱり、多村も開けなかったか」

 後ろから声がしたが、振り返ることはしなかった。目で確かめる必要はなかった。

「オレも開けれなかった。村上も開けてない。なんか、大きな壁にぶち当たった時に開けようとオレと村上は考えてる。いつ開けるかは、お前の自由だ」

 多村は封筒を見つめて言った。

「こん中に渚がいる。会いたくて仕方ないのに、会う勇気がない。オレは、ただそれだけだ」

 霧島も村上もなにも言わなかった。走ったせいで汗ばんでいたジーンズも、ノースリーブも、その上に羽織った半袖のシャツも、すでに乾いていた。

「それと……これ」

 村上が二段目の引出しを開けた。

「霧島君とわたし、それに、多村君に一つずつ。渚と色違いのミサンガ。渚が、ベッドでみんなに内緒で作っとったの」

 一つ一つに小さく名前が刻まれてあるようで、村上はそれを凝視して名前を確かめていた。

 霧島が緑、村上が黄、そして、多村に渡されたのは赤だった。ということは、恐らく福原が着けていたのは青だったのだろう。村上は、この色がそれぞれに対する福原のイメージだったんだ、と説明していた。しかし、多村はそれに意識して耳を傾けることはなく、自分の黒く焼けた手首に躊躇いがちにミサンガを巻いた。





 目次