第四章





【 4 】

 海が見たい。そう渚が言い出したのは十月の中ごろだった。そのころはお見舞いに毎日行く度に、連れて行ってとせがまれた。渚の体調を考えると連れて行けるわけもないし、多村は「直ったら連れてくから」となだめるばかりだった。

 海に連れて行くことさえできない。そんな自分の非力さに多村自身は苛立ちを覚えて、彼女の真剣に懇願する顔をなにをしていても振り払うことができずにいた。

 そんなある日、美智子さんが病院のロビーで多村を呼び止めた。

「渚を連れて行ってあげて」

 主治医に尋ねたところ、迷った末に許可をくれたらしい。抗がん剤の治療を調節して、どうにか間を持たせるという話だった。

「あたしたちじゃだめなのよ。あの子は、あなたにしか連れて行ってと言わないの。あの子は今、あなたにしか本当の気持ちを言えないのよ。あの子がなんの遠慮もせずに心を開いてるのは、あなただけなのよ」

 おばさんたちが連れて行ってあげた方が、いいでしょう。そう返答すると、この答えが返ってきた。その言葉の最後に「私たちじゃなく」という言葉が隠れているのは自ずと感じられて、多村は少し心が痛むのを感じた。

「分かりました」

 その週末、多村はしっかり準備をして、病院に向かった。病室でいつものように色々とお喋りをして、主治医がいつもとは違う時間にやってきて体調を確認した。その主治医に呼ばれた美智子さんが、病室を出ようとする時に、一瞬多村に穏やかな目を向けた。実はこれが出発よしの合図だった。

「渚」

 多村は、「でな」と言葉を続けようとする渚を、名前を呼んで遮った。

「なに?」

「行こうよ、海に」

 渚は大きな瞳をさらに見開いて驚いてから、目じりに涙を溜めて笑った。

「連れてって」

 パジャマからの着替えを躊躇いながら手伝った。テニスをしていたころよりも、さらに白くなった肌と、片足を失った細く小さな体が切ないほどに痛々しかった。

 込み上げてくる感情に多村が渚に羽織らせようとしたシャツの手を止めてしまうと、渚はくすっと笑った。

「そんなにシュウはうちの下着姿見てたいんや?」

「ばーか」

 そう多村が言うと、渚は目が合ったとたんに急に視線を落とした。悲しい目をしているのを見られた。

「ごめん」

 渚が謝ったのを多村は笑い飛ばした。

「あほ。元気になったらいつでも抱いてやるから待ってろ」

「病院のベッドでそんなこと言うな、変態」

 多村は用意された、医師や看護士に会わないルートで、多村の体にしがみつくようにして、一本の足で歩く渚を連れて院外に出た。病院の裏に用意された主治医知り合いのタクシーに渚を乗せると、自分もその横に乗り込んで、行き先を伝えた。

 タクシーの中では、運転手がいたからか、渚はなにも話そうとはしなかった。その代わりに、多村の手をぎゅっと握った。握り返すと、さらに強く握り返そうとして、できずに諦めて多村に笑いかけた。

 海についた。浜辺におりて、波打ち際まで行きたいという渚を支えて二人はそこまでいった。太陽はだいぶ低くなっていて、夕暮れが始まろうとしている。

「きれい」

「うん」

 潮騒に渚が目を伏せて耳を傾けた。潮風に黒い髪がなびく。

「な、ずっと向こうまで行こ」

「これ以上歩かない方がいいよ」

「そやから、おぶって」

 軽いんだろうな。そう予想していたのに、それ以上に渚は軽かった。

 波打ち際をゆっくりと、海を見ながら歩いた。渚は多村の肩に顔を乗せるようにして、色々なところにその生き生きとした目を向けていた。

「シュウ」

「ん?」

「好き」

「オレも」

 何度もそんなやり取りを繰り返して、二人は遠くまで波の音を聞いた。

 やがて元の場所に戻ってくると、空は赤く、雲まで紅に染まっていた。多村はゆっくりと渚を下ろして、自分もその横に座り込んだ。

「すごい」

「うん」

 最初と同じようなやりとりをして、二人は夕暮れに見入った。波に橙色の太陽が道を作り、そして沈む寸前の最も赤い姿で二人を照らした。

「今ここ、うちらと同じやね」

「え?」

「な、ここが渚。で、今の季節は?」

「秋……そっか」

 渚と秋平。渚と秋。渚は多村のことをシュウと呼んでいたからなおのことだったのだろう。

 気付いた多村が渚の方へ顔を向けると、渚も多村の方に笑顔を向けていた。

「シュウ」

「なに?」

「呼んでみたかっただけ」

「なにそれ」

「あんまり、呼ぶことなかったさかい」

 渚は舌を出して肩をすくめた。

「渚」

「なん? 呼んでみたかっただけ?」

 多村は渚を抱き締めて、キスをした。甘く、切なく相手を求め合うように二人はぎこちなく、そして長く唇を重ねた。





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