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お客様より、「せっかく四国で営業しているのだから八十八ヶ所御霊場の事を書き込んでください」とのリクエストにお応えして御霊場のお話をご紹介いたします。宜しければお読み下さい。
四国の4県それぞれを発心(阿波)、修行(土佐)、菩提(伊予)、涅槃(讃岐)としており、阿波23ヶ寺、土佐16ヶ寺、
伊予26ヶ寺、讃岐23ヶ寺の計88ヶ寺を廻る事で、自家用車や観光バス、バイクや自転車。徒歩などで沢山の人がお参りにお見えです。
第一番のお札所霊山寺は正式名を竺和山霊山寺(じくわざんりょうざんじ)といい、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩が千二百年前に開いたとされています。弘仁6年(815年)弘法大師空海上人が留まって釈迦如来を刻み第一番札所として定めたそうです。こちらのお寺では巡拝に必要なものが全て整い、ここから約千四百キロの旅が始まるのです・・・。
第二番日照山極楽寺(にっしょうざんごくらくじ)開基は行基菩薩様で、弘仁年間に弘法大師が巡錫し、秘法を修めました。結願の日に現れた阿弥陀如来のお姿を刻み第二番の札所に定められたと伝わっています。納経所手前には大師お手植えの長命杉があり、木に手を触れると長寿を授かるそうです。
第三番亀光山金泉寺(きこうざんこんせんじ)聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基した寺院で、弘仁年間に弘法大師が巡錫した折、境内に湧く黄金井の霊水をみて金泉寺と名を改め、第二番札所として定めたそうです。黄金地蔵堂の中にある「黄金井の井戸」はこの井戸を覗いて水面に顔が映れば長生き間違いなし。映らなければ三年以内に亡くなる、と伝えられているようです。
第四番黒厳山大日寺(こくがんざんだいにちじ)このお寺は開創についてはハッキリしていないそうですが、弘法大師空海上人が長期にわたって滞在し修行され、その中で御本尊の大日如来像を刻まれ安置され、第四番札所として定められたそうです。
第五番無尽山地蔵寺(むじんざんじぞうじ)山門を入ると弘法大師お手植えといわれる樹齢八百年のイチョウの巨木があります。こちらのお寺は弘仁12年(821年)嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師様が開創されました。ご本尊様は将軍地蔵菩薩という甲冑を身に纏い馬にまたがった勇ましいお地蔵様で弘法大師様の作といわれています。また、本堂裏手の階段を登ったところに奥の院羅漢堂があり、表情豊かな羅漢さんが三百余体安置されています。
第六番温泉山安楽寺(おんせんざんあんらくじ)昔温泉の湧き出る所が現在の境内奥にあり、諸病に薬効ありと伝え聞いた弘法大師様がこの地で薬師如来を刻んで寺院を建立されたという。本堂は万治元年と昭和32年に消失した歴史を持ち、現在地へ移転・再建された現在は銅板屋根、鉄筋コンクリートのモダンな建物です。本堂の前にはお大師様が修行中に誤って猟師の的になりかけた際あわやのところで身代わりになったという「大師身代わりの逆松」がある。逆松というのはお大師様が逆さに植えられたからだと伝わっています。300名近くの収容が可能と言われる宿坊も併設されています。
第七番光明山十楽寺(こうみょうざんじゅうらくじ)開基は弘法大師様で、ご本尊様は阿弥陀如来坐像。人間が持つといわれる八つの苦難から解き放たれて極楽浄土に赴いた際十の光明に輝く楽しみが得られるようにと願い寺院の名前がつけられたと言われています。また寺院付近は1221年の承久の乱の際土御門上皇がこの地に流された際行在所があったことから御所野と呼ばれています。付近は桜・新緑・紅葉と四季それぞれの眺めが美しく「たらいうどん」の名所としても知られています。
第八番普明山熊谷寺(ふみょうざんくまだにじ)参道途中に入母屋作り、二層の山門があり、仁王門としては四国最大級の規模で貞享4年(1687年)に作られたと言われていて、昭和46年には県の文化財に指定された。開基は弘法大師様で、弘仁年間に大師がこの地で修行をされていた際に紀州熊野権現が現れて大師に一寸八分の金の観世音菩薩像を授けたといわれ、大師は「一刀三札」して霊木に等身大の千手観音を刻んで仏舎利120粒と共に金像をその胸に納めて堂を建立したそうです。
第九番正覚山法輪寺(しょうかくざんほうりんじ)四国八十八ヶ所中ここだけと言われている、珍しい「釈迦涅槃像」がご本尊のお寺で、ご本尊は弘法大師様の作だと言われています。お寺の始まりは弘法大師様が四国巡錫の途中この地の近くの池の畔で白蛇を見つけ、仏の使いであるというのを聞き白蛇山法淋寺を建立したのが始まりであるといわれています。幾度の火災で山門を残し消失した後正保年間になって再建され、現在の寺名に改められたそうです。
第十番得度山切幡寺(とくどさんきりはたじ)このお寺は三百余段の石段の上、かなり高い山の上にある。こちらの二層の多宝堂は国の重要文化財に指定されている。このお寺には貧しいながらも布施の心を持つ娘と大師様の伝説が伝わっており、その縁で大師様が千手観音を刻み、その娘に得度させ灌頂を授けた。その際娘が即身成仏し観世音菩薩に化身した事からこの故事に習い寺名が付けられた。毎年11月の流水灌頂会は沢山の女性信者で賑わうという。
第十一番金剛山藤井寺(こんごうざんふじいでら)弘法大師様が42歳の厄年に開創されたお寺で、当時は七堂伽藍の大寺だったが、天正の兵火により消失し、後に臨済宗妙心寺派の南山禅師が再興した。その後再び火災に遭い、現在の建物は江戸末期の物。十五番国分寺や、三十二番雪渓寺と共に、四国の礼状の中では珍しい禅宗の寺院です。寺名の始まりとなった山門脇の藤は花の時期は大変素晴らしく、訪れた人の目を和ませています。
第十二番摩盧山焼山寺(まろざんしょうざんじ)四国霊場にある通称「遍路ころがし」といわれる難所の一つに上げられる、標高八百メートルの焼山寺は火を吐く魔性の大蛇の伝説が残っている。虚空蔵菩薩の加護を得て大蛇を岩屋へ封じ込めた際大蛇が全山を焼き払った事から焼山寺の名がついたという。徳島県立公園にも指定されている山は霧の立ち込める日が多いといい、美しい景観は心が癒されます。
第十三番大栗山大日寺(だいりつざんだいにちじ)大日寺は元は一宮神社と境内を共有しており同神社の別当寺でありましたが、明治の神仏分離令により神社から離れたものです。開創は弘仁6年弘法大師が同神社奥の大師の森で護摩修法を行っていた際南方に紫雲立ち込め、その中に大日如来が出現した事から、大師が大日如来を刻み堂宇を建立し大日寺と名づけた。このことより、本尊は大日如来であったが、神仏分離の時以来から神社より寺へ移された十一面観音が本尊となっている、感慨深く、歴史的なお寺です。
第十四番盛寿山常楽寺(せいじゅざんじょうらくじ)本尊は八十八ヶ所のうち唯一の弥勒菩薩で、お寺は境内へ上がる石段の上部二十段ほどは自然のままの岩で出来ていて、寺内も一面の岩地です。苔むした岩肌が緩やかな起伏で波状に広がる姿は「流水岩の庭」と呼ばれるほどの美しさです。弘仁6年に弘法大師が立ち寄った際に糖尿病で苦しむ老人を救った際に用いた霊木アララギも現存しており、本堂の屋根を覆うばかりに枝を広げています。
第十五番法養山国分寺(ほうようざんこくぶんじ)国分寺は境内も大きく建物も大きいのですが、痛々しいほどの荒廃ぶりです。天平13年(741年)聖武天皇は全国に金光明四天王護国之寺(僧寺)と法華滅罪の寺(尼寺)の建造を命じられた。所謂国分二寺の建造でこのお寺もそれにあたります。昔は2キロ四方に金堂や7重搭等が立ち並び壮観を極めたようですが、天正の兵火で殆どが消失・・寺内も荒れるにまかされた。今僅かに当時の面影を伝える二層の本堂は近寄りがたいような品位と古色を漂わせている。本尊は行基様の作と言われる薬師如来であるが、弘法大師が参篭して刻んだと伝わる烏芻沙麻明王(うすさまみょうおう)の方が知られていて、不浄を転じて清浄となすこの仏は信者の願いを一つだけ叶えて下さるという。本堂を囲む廃園の石組みは桃山時代の様式のもので、寺内全域が県の文化財に指定されている。
第十六番光耀山観音寺(こうようざんかんのんじ)天平13年に聖武天皇の勅願寺として建立されたこのお寺には、巡礼にまつわる実話が伝わっている。明治二十七年頃宮崎シヨさんという巡礼が休息中に茶室でたいていた火が着物に燃え移り全身に大やけどを負ったという。彼女は若い頃姑を柱に縛りつけ燃える薪で折檻をしていたといい、その報いを受けたのだそうだ。後にシヨさんは大師の戒めを深く反省し、その図を額にして奉納したという。巡礼者が善行・悪行の全てを大師がそうさせているのだと反省できる事にも巡礼行脚の大きな意義があるのかもしれない。ご本尊は弘仁七年に大師が刻まれたといわれる千手観音で、千の手と千の眼をもって人間の苦しみや悩みを即座に救って下さるといわれている。
第十七番瑠璃山井戸寺(るりざんいどじ)弘仁6年大師がこの地に留錫中、村に濁った水しか出ない事を哀れと思し召し錫杖で地面を突き清水を湧き出させ、水面に映った自身の像を彫って井戸の傍らに安置したのが寺名の由来となっている。この井戸を覗き姿が映れば無事、映らなければ三年以内に凶事があると伝えられており、「面影の井戸」と呼ばれている。この井戸の傍にある石像は「日限大師」と呼ばれ日を限って願をかけると必ず叶えられるといわれていて参拝者が後を絶たない。現在の本堂は昭和45年に再建された鉄筋造りだが、昭和43年の火災までは大師作の七仏薬師如来と共に古式ゆかしい寺院であったそうだ。
第十八番母養山恩山寺(ぼようざんおんざんじ)この寺院は元々聖武天皇の勅願により行基様が開創された女人禁制の寺院であったが創建後百余年の後お大師様がここで修行されていた際に母の玉依御前がお訪ねになり、女人禁制の為登れない母の為に仁王門の近くで十七日間の間秘法を修して女人禁制を解き母を迎え孝養を尽くした。玉依御前はここで剃髪されたがその時に大師は寺名を現在のものに改めたという。境内には天然記念物の唐木・ビラン樹があり、この樹は大師お手植えと言われている。
第十九番橋池山立江寺(きょうちざんたつえじ)四国霊場に4ヶ所ある「お関所寺」の一つで、悪人や邪心を持ったものがお大師様のお咎めを受けると言われているお寺である。享和三年、島根のお京という女が男と密通、お京は男を唆して夫を殺し、姿をくらます為に遍路に身を窶して二人で札所巡りをしていた途中立江寺に立ち寄った処本堂でぬかずくやいなや突然お京の黒髪が鐘の緒の巻きつき肉共々剥ぎ取られたという。お大師様のお咎めを受けたのである。こちらの寺院は光明皇后のご安産を願って黄金の地蔵菩薩を刻み安置したといわれる格式の高い高野山別格本山で、行基が開基した聖武天皇の勅願寺でもある。
第二十番霊鷲山鶴林寺(りょうじゅざんかくりんじ)地元の人に「お鶴さん」と呼ばれ、親しまれているお寺で、焼山寺・太龍寺と並んで阿波の三大難所寺であったが、山門までドライブウェーが出来た現在ではずいぶんと参拝がたやすくなったそうです。弘法大師がこの寺で修行中に二羽の鶴に護られた黄金の地蔵菩薩が大杉の梢に留まったお姿を拝見し、合唱礼拝したところ大師の手に降臨された。この事に感激された大師は高さ一メートルの地蔵菩薩を刻み、本尊として安置された。そして、この山の姿が天竺の鷲峰山に似ている事から寺名を霊鷲山鶴林寺とした。
第二十一番舎心山太竜寺(しゃしんざんたいりゅうじ)「一に焼山、二にお鶴、三に太竜」といわれる阿波路の三大難所で八十八ヶ所中五番目に高い山である。西の高野と呼ばれ、岩峰に修行大師の坐像がある。大師像の視線の先には雄大な自然が広がり少し視線を落とせば徳島平野や紀伊水道が望める。大師十五歳の時と十九歳の時の二回修行の為にこの地を訪れ、十九歳の時には百日間虚空蔵菩薩求聞持法の苦行を積んだといわれる。大師の著「三教指帰(さんごうしいき)」の中にも「阿波太竜の嶽にのぼり・・」と記されている。後に、延暦十七年(798年)桓武天皇の勅命により伽藍を創建し本尊の虚空蔵菩薩を刻んで安置されたといわれている。
第二十二番白水山平等寺(はくすいさんびょうどうじ)弘法大師がこの地を巡錫中空に五色の瑞雲がたなびき金色に輝く梵字が現れ、やがてそれは薬師如来のお姿へと変貌した。大師が手にした錫杖で大地を掘ったところ乳白色の霊水が湧き出したという。大師はその水で沐浴し、修行を重ねた後薬師如来像を刻み本尊として安置した。これがこの寺の始まりと伝えられている。この井戸は現在も「白水の井戸」と呼ばれ現存しており大師堂の横にある。この井戸は浅いけれどどの様な日照りにも水の枯れる事はなく万病に効く大師の水としてあがめられている。医者に見離されたものでも、四国八十八ヶ所を巡礼中この寺で足腰が良くなったなど、霊験あらたかな言い伝えなども数多く残っている。
いよいよ阿波の国最後のお寺、地元日和佐町は薬王寺のご案内です。
第二十三番医王山薬王寺(いおうざんやくおうじ)弘仁六年(815)弘法大師42歳の時諸人厄除けの為に薬師如来を刻み本尊として安置した。文治4年火災の為塔堂の殆どが焼失したが、その際本尊は光を放ちて西のかた玉厨子山へ飛び去り難を避けられたという。後に伽藍の再建が叶い、新しい薬師如来の開眼法要を営んでいると元の本尊が本堂に帰り後ろ向きに堂内へと入った。以来当寺の本尊は二体あり「後向薬師」の由来となった。土地のお年寄りに聞いたところ、これは、元の本尊が新しい本尊と張り合うのを厭われて御自分が後を向かれたということです。厄除けに大きなご利益があるとされ、全国からお参りの方が絶えないお寺でもあります。
次ページから「修行」の道場・・・土佐の国に入りますが、お札所の紹介の前にお大師様が「虚空蔵菩薩求聞持法(こくぞうぼさつぐもんじほう)」を会得された御蔵洞(みくろど)と、青年大師像のご紹介をしたいと思います。室戸岬から東側、国道55号線沿いに岩盤を大きくえぐった場所に二つの洞窟があります。向かって右は「神明窟」で大師が求聞持法を会得したとされる修行場で、左は大師が寝起きをされていたといわれる「御蔵洞」又の呼び名を「御厨人窟」ともいわれる場である。千二百年の時を経て尚当時の面影を偲ばせる、大師の慈悲の深さを感じさせる場所でもあります。青年大師像は御蔵洞手前に位置し、拝観料をお支払いして中に入ると曼荼羅や大師の手形などの宝物が展示されています。