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第二十四番室戸山最御崎寺(むろとさんほつみさきじ)土佐路最初のお札所は室戸岬の山上にあり、ここから「修行の道場」となる二十六番金剛頂寺を西寺と呼ぶのに対して東寺と呼ばれ、大同二年(807)唐から帰国した大師が虚空蔵菩薩を刻み安置したのがはじまりという。足利時代には土佐の安国寺となり七堂伽藍を持つ巨刹であったが、後に衰微し元和年中に復興。さらに大正三年に永江大仁師が本堂を再建した。山門までの途中に「ひねり岩」という洞窟があり、ここは、大師が修行中に訪ねて来られた母の玉依御前を荒天から守る為に駆けつけた大師が大岩をひねって作り避難させた大師ゆかりの場所だと伝えられている。
第二十五番宝珠山津照寺(ほうじゅざんしんしょうじ)大同二年(807)弘法大師が海で働く漁師の為に大漁と安泰を祈って延命地蔵を刻んで本尊として安置したのが始まりといわれる。慶長七年(1672)藩主山内一豊が海上で暴風雨に見舞われた際、まさに転覆寸前のところで何処からともなく僧侶が現れ巧みに舵を操り無事室津港へ入港させた。陸へ上がると僧侶の姿は無く、不思議に感じつつも津照寺へ感謝の参拝をしたところ、ご本尊の地蔵菩薩がびしょぬれになっておられた。藩主はお地蔵様のお陰であったかとそのご恩に深く感謝したという。以来「舵取り地蔵」とも呼ばれ、船乗りや漁師の信仰が厚い。
第二十六番竜頭山金剛頂寺(りゅうずざんこんごうちょうじ)室戸岬北西、土佐湾へ向かって小さく出た行当岬の頂上に金剛頂寺がある。大師堂の前には、大師がたった一粒の米を入れて炊いたところ一万粒の粥になったという故事の残る「一万粒の釜」というものがある。大師の開基で大同元年(806)に勅命を受けて創建された。本尊は大師が刻まれた薬師如来だが、この本尊様は完成時に自ら本堂の扉を開き堂内へ鎮座されたという。昔は寺領三千五百石をもつ大寺だったが度重なる火災の為堂塔の殆どを失い、明治以降に再建された。境内には「捕鯨八千頭精霊供養塔」と刻まれた石碑があり、別名「鯨寺」と呼ばれる所以となっている。
第二十七番竹林山神峰寺(ちくりんざんこうのみねじ)お四国中でも屈指の難所といわれるこのお寺神峰寺は海抜630メートルもある山の山頂近くに位置しており、遍路泣かせと呼ばれる勾配45度急な坂道が1キロあまり続きます。が、それも昔の事で現在では道も舗装されていて車でお参りされる方にはそれほど厳しい参拝道ではないようです。神仏分離令が発令されるまでは神仏が合祀されていたお寺でもあり縁起によると神功皇后が三韓征伐に当たり天照大神をはじめ諸神を祀った後行基菩薩によって十一面観音を安置した別当寺がおかれたという。後に弘法大師が勅命を受け27番札所にしたと伝えられている。明治4年には本尊を金剛頂寺へ移し、神峰神社のみが残り、寺は廃寺となったが明治17年に間崎天竜氏の手によって復活され、本尊十一面観音をお迎えし神峰寺として現在に至っている。納経所には当寺伝説の「食わずの貝」があるそうで、これはお大師様が所望されたのを村人が断って以来固くて食べられない貝になったといわれている。
第二十八番法界山大日寺(ほうかいざんだいにちじ)三宝山の山並みを走る龍河洞スカイラインの東側に位置するこの寺院は天平の昔、聖武天皇勅願寺として行基菩薩が大日如来を刻んで本尊とし、開創した。その後弘法大師が巡錫の折立木の楠に薬師如来を彫刻された事からこちらの尊像は本堂より更に150メートル進んだ先の奥の院に安置された。慶長年間以降には土佐藩の庇護の下整備されていたが、明治4年には廃寺になった。後、明治17年に再興し諸堂も再建された。寺には大日如来のほか聖観音立像や十一面観音像などの重要文化財がある。彼岸頃には納経所前の枝垂桜が美しく咲き誇る寺院でもある。
第二十九番摩尼山国分寺(まにざんこくぶんじ)こちらの寺院の仁王門は承応二年(1653年)藩主山内忠義の寄進といわれて、二階鐘楼の梵鐘は国の重要文化財に指定されています。起源は聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺造営の勅命を出された際に行基菩薩が創建したといわれ、本尊の千手観音像も行基の作と伝えられている。天下泰平・五穀豊穣・万民豊楽を祈る勅願寺として「金光明四天王護国寺」の勅号を賜った土佐随一の名刹として知られている。そして、弘法大師が御身42歳の節分に星供の秘法を修されたご縁から大師堂は「星供大師」と呼ばれている。
第三十番百々山善楽寺(とどさんぜんらくじ)・妙色山安楽寺(みょうしきざんあんらくじ)第三十番を名乗る寺院は二ヶ寺あり、善楽寺は桓武天皇の頃土佐神社の別当寺として弘法大師の手により建立され、このときに三十番札所として定められた。が、後の神仏分離令、廃仏毀釈により本尊を国分寺へお預けし、廃寺となってしまった。明治九年にはこの本尊阿弥陀如来を安楽寺に移し三十番札所として復活させたものの、大師の開創された善楽寺への深い信仰は経ち難く昭和4年には別当寺の跡地に寺を再建させ、国分寺より大師像をお迎えし「本家三十番札所」を主張した。両寺の間には長い間トラブルはあったものの現在では円満に解決されておりどちらへお参りさせて頂いてもよい同格扱いとなった。納経帳にはともに「土佐一宮」と記し朱印は「本尊泰安安楽寺・開創霊場善楽寺」と双方が使い、現在では両方の寺院の住職を同じ僧侶が勤められているという。ともに、優美な味を持つ素晴しい寺院である事でも有名です。
第三十一番五台山竹林寺(ごだいざんちくりんじ)高知市の観光地でもある五台山公園は海抜145mに位置し、眼下には高知市内や果ては桂浜まで一望できる景勝地でもあります。この山頂にそびえる竹林寺は神亀元年に聖武天皇が唐の五台山に文殊菩薩を拝した夢をご覧になられたきっかけで行基に「日本で五台山に似た霊場に伽藍を建て、文殊菩薩を安置せよ」とご下命になった事が始まりと言われる。後に弘法大師巡錫の折三十一番札所と定めた。単層・入母屋作り・こけらぶきの本堂は「文殊堂」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。
第三十二番八葉山禅師峰寺(はちようさんぜんじぶじ)神亀年間行基がここを訪れた際、行き交う船の安全を祈り 自作の十一面観音像を本尊に据えお堂を建てたのが始まりと言われている。後の弘仁6年弘法大師巡錫の際この山が補陀落山(ふだらくさん・観世音菩薩が住むといわれる理想の山)に似ていて、更に八葉の蓮台の形をしている事から八葉山禅師峰寺と名づけたという。山門に安置されている仁王像二体は鎌倉時代の仏師定明の作で重要文化財である。他には鐘楼の横に「汐の満干(みちひ)」と立て札を添えた岩がありその上の小さなくぼみに溜まった水が潮の満干によって満ちたり干いたりするという不思議な岩がある。
第三十三番高福山雪蹊寺(こうふくさんせっけいじ)桂浜近く、昔の長浜城が建っていた城山のふもとにある雪蹊寺は弘仁年間の弘法大師開創の寺院で、幾度か名を改めたが、長曽我部元親の菩提寺となってからその法名に因み雪蹊寺と名を改め臨済宗の寺院になった。寺は「鎌倉仏像の宝庫」と呼ばれるに相応しい見事な仏像が安置されている。永禄年間托鉢中の月峰和尚がこの寺ですすり泣く声を聞き和歌の上の句が出来ぬ事が原因でさ迷っている霊に上の句を授け成仏させた話を聞いた長曽我部元親が和尚に住職を頼みさびれていた寺を再興させたという話も伝承されている。
第三十四番本尾山種間寺(もとおざんたねまじ)敏達天皇の治世(577年)大阪四天王寺の建立を終えた百済の技術者達が嵐に遭い難を避け、この地へ上陸した時に航海の安全を願い薬師如来像を刻み海岸に安置したのが始まりとされている。後に弘法大師が唐から持ち帰った穀物の種をこの付近に蒔きこの薬師如来を本尊として堂宇を建立し種間字と名づけた。また、本尊の薬師如来は安産の守り仏としても有名である。
第三十五番医王山清滝寺(いおうざんきよたきじ)養老7年(723)に行基が薬師如来を刻んで安置して繹木寺(たくぼくじ)と名づけたのが始まりで、弘法大師巡錫の折本堂北の山中で修法された大師が満願日に錫杖で大地を貫くと清水が湧き出た。これに因み寺名を清滝寺と改め札所に定めたという。泉は今も湧き続けふもとの田畑はじめ特産の土佐和紙作りにも役立っているという。もう一つ伝わる話として、ここには高岳(たかおか)親王の逆修塔がある。弘法大師の十大弟子に真如という僧がいた。この方こそ平城天皇の第三皇子高岳親王で大師に師事し修行を積み、諸国を行脚した後大師の没後清滝寺にて唐・天竺へと渡る決意をし再び故国の土は踏めまいと逆修塔を建立、「我これより天竺へと渡る。いずれの地に果てるとも魂は必ずこの五輪の塔下へ帰り当山を護る」と書き遺された。翌貞観4年、60歳にて入唐されたが天竺を目指す途中消息を絶たれたという。逆修塔とは生前に自分の追福を祈って建てる塔の事で、当時海外へ渡る事がまさに命がけであった事が偲ばれます。
第三十六番独鈷山青竜寺(とっこざんしょうりゅうじ)このお寺は唐から帰国した弘法大師の開創と伝えられる。大師は唐に留学中長安の都、青竜寺で恵果和尚の教えを受けた。帰国にあたって師の恩に報わんと有縁の勝地が選ばれる事を願い東へと独鈷杵(どっこしょう・仏具の一種)を投げた。帰国中に大嵐に遭いあわや転覆の場面で波切不動尊が現れお守り下された。無事に帰国した後独鈷杵の行方を尋ねる大師の前に現在お寺が建っている宇都賀山から紫雲が立ち上るのを見てこの地を感得したといわれる。後に自らが波切不動尊を刻み本尊として安置。これらの事が寺名の由来といわれ、寺は海で働く人々の信仰が絶大である。
第三十七番藤井山岩本寺(ふじいざんいわもとじ)この寺院には大師ゆかりの「七不思議伝説」が今も語り継がれている。大師が難産で苦しんでいた旅の女性を救い安産させたと伝わる子安桜、大師が子供の願いを聞き入れて年に三度実らせたという三度栗、大師が月を眺めながら筆を投げたところへ生えたとされる筆に似た筆草、大師が御室の浜に植えた桜が散った後花びらが貝となったといわれる桜貝、それ以外に口なしの蛭、尻なし貝、戸立てずの庄屋がある。八十八ヶ所中他に例を見ない五体の本尊が安置されている事でも有名である。ちなみに五体の本尊とは、不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩の五体である。
第三十八番蹉陀山金剛福寺(さださんこんごうふくじ)三十七番からの距離は実に120k。札所間の距離は最も長い。その昔道なき道を辿ってこの地にたどり着かれた弘法大師は四国最果ての足摺岬にて千住観世音菩薩を感得し、この地が四国最南端である事から観世音の住む理想の世界として嵯峨天皇より「補陀落東門」の勅額を賜り、弘仁十三年に伽藍を建立、千手観音像を安置したといわれる。和泉式部の逆修塔があることでも知られている。
第三十九番赤亀山延光寺(しゃっきざんえんこうじ)土佐の札所はこちらで最後。金剛福寺から70kの土佐路西端の寺である。神亀元年聖武天皇の勅願により行基が薬師如来を刻んで本尊とし開創した。後に大師巡錫の折、日光、月光両菩薩を刻んで脇仏とし荒廃していた堂宇を再興したといわれる。浄水の乏しかったこの地に大師が加持祈祷後地を掘って授けた霊水「貝洗いの井戸」(眼病に効能があり信者が多い)や大きなアカウミガメが龍宮城から背負って来た梵鐘を奉納したなどの伝説も伝わっている。この鐘は重さ7.5k弥勒寺鐘の銘が入っていて県下最古の銅鐘として国の重要文化財に指定されている。