遊遊HOUSE本館TOPへ

絵  金


絵金は興味深い人物ではありましたが、
その名とおどろおどろした絵を知っているだけで、
赤岡町の有名な絵金祭りにもまだ行った事がありません。

この度、「絵金蔵」を訪れ、
にわか勉強で、少し絵金の事を知ることができました。
ローソクの灯りでみる絵金の絵は
おどろおどろしているだけではなく、
人の哀と怒が大きな魂をもって迫ってくるような迫力がありました。
この迫力は伝統ある歌舞伎を巧みに描いた
絵金の才が感じさせるのでしょう。

天才ともいえる画才故に故郷を追われ、
人権をうばわれるにひとしい境遇にあいながら、
極めた画風の画家ではなく、イラストレーター様であったとしても
やはり絵師として甦った、土佐の庶民が甦らせた、、
だからこそ百数十年たった今でも
庶民の夏祭りで絵金は息づいているのだと思ったのでした。



「絵金蔵」のページはこちらからどうぞ。。



(写真は2000年1月1日高知県夜須町ヤシーパークにて撮影したものです)

疑問・・・
江戸時代の町絵師 絵金の絵は
生首が飛んだり・・血が飛び散ったり・・
どうしてこうも残酷でおどろおどろしているのでしょうか・・

それは・・
当時の文化の影響のようです。
当時の歌舞伎の舞台では、絵金の芝居絵のようなグロテスクな演出が
いろんなトリックを使っておこなわれていたのだそうです
絵金の芝居絵は当時の歌舞伎の看板でありポスターのようなものであったようです。


(以下は赤岡町・赤岡町教育委員会発行「絵金読本」より抜粋し、遊遊の解釈でまとめました)

絵金は1812年高知城下の髪結いの子として生まれ、
金蔵と命名されました。

絵金の名は絵師金蔵を省略した通称です。

幼少の頃から画才に秀でた絵金は
狩野派の画風を学びたちまちに頭角をあらわします。

16歳時江戸にのぼり狩野派の本格をひたすら修め、
通常10年といわれる修業期間を3年で免許皆伝を与えられました。

その後土佐に帰り、家老のお抱え絵師にとりたてられ、
若干19歳にして陽の当たる場所を得ることになります。

輝かしい出世の歳月がどのくらい続いたのかはわかりませんが・・

せまい高知の城下で生涯をおえるにはたえられない性格と
金銭に異常な執着を示したりといわれたり
・・
何よりも彼の才能への嫉妬反感が積もって・・・
贋作事件が持ち上がりました。

「偽絵描き」という汚名の極刑を言い渡され、
狩野派は破門、彼のそれまでの作品はことごとく焼却され、
こめかみに終生消えぬ科人の焼き印を押され
城下追放に処せられたのでした。

この後の
日陰者の苦汁をつぶさに味わったであろう・・
歳月の消息を伝えるものは何も残されていませんが、
おそらく上方にのぼり
芝居者の中に入っていたのではないかと考えらています。

三都及び天領直轄以外の芝居興行が禁じられていた時代、
土佐でも高知城下での芝居興行は一切禁止されていました。

そんな時代に、
城主である山内家に反する気風を内に秘め
廻船問屋、商工業者の財力を持つ現在の高知県香美郡赤岡では
上方役者を招いての芝居興行も行われ、
高知城下からも忍び見物客が来たと伝えられています。

この赤岡に絵金の叔母の嫁ぎ先がありました。
そこに身を寄せた絵金が芝居絵に開眼し、大成した所と言われ、
現在その主要作品の大半を所蔵している赤岡町との縁は
こうして出来たのでした。

赤岡の氏神である須留田八幡の宮芝居に対抗するように
夏祭りの宵の景物として描きあげたのが、
絵金の芝居絵屏風のはじまりだといわれています。

名もない庶民の生活のエネルギーの根源である祭りのための
義太夫・歌舞伎に題材をとった芝居絵を制作することに思いいたり、
絵金とよばれる町絵師の真の生命の誕生をみることになったのです。
絵金は芝居絵をもとめる大衆によって才能が開花し、
町絵師絵金が誕生したのでした。



酒蔵をアトリエにし、両手に6本の筆を持ち、
1日に大屏風絵1枚、絵馬提灯百数十枚を仕上げたと言われるように
驚くほどの早さで描き、
また右手が利かなくなれば左手で描き
弟子達にも天才画家絵金の本質を余すところなく伝えています。

明治維新後、絵金は高知の旧居に帰りました。

明治9年3月8日、63歳の生涯を終えるまで
人々の求めに応じ制作はとどまることをしらなかったということです。



人物の部屋
 
  風景&花の部屋    イベント・名物・観光   ポンズの部屋   遊遊HOUSE本館TOP