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牧野富太郎



牧野富太郎銅像
大きなキノコを発見して喜び踊る牧野富太郎の銅像)
高知県立牧野植物園にて撮影

拝啓  牧野富太郎博士

「高知県の偉人は?」と尋ねられたならば、
遊遊、迷わず博士のお名前をあげさせていただきます。
その博士に今やっとお手紙差し上げる事ができます事は
大変光栄で嬉しいことでございます。

先日、高知県立牧野植物園に行ってまいりました。
幼少の頃は一人草木と遊ぶ少年であったいわれます博士。
幼くして御両親様が他界された寂しい思いを
草木の精達とお話しされていたのでございましょうか・・
例年になく寒さの残る今年3月でございますので、
花はまだ蕾・・春を待ちわびておりましたが、
たくさんの木々の中を散策し、
「草木の精」と称されました博士の思いに触れた感がいたしました。

博士のお写真もたくさん拝見いたしました。
植物採集で山に登る時はいつも背広に蝶ネクタイという正装で、
植物に対する愛情、礼儀を重んじられたと伺っております。
明治の時代の方でありながら、また学者という寡黙なお仕事でありながら、
草木の採集は似合わぬ正装で撮られておりますお姿、豊かな表情に、
自分の何かが救われるような・・そんな感動をいただいた思いでございました。

博士のお生まれになられた、
かつては酒づくりの町として栄えていた高知県高岡郡佐川町。
今はその面影も薄れ、過疎の町となっておりますが、
博士の御生家のございました辺りにはまだ昔様の酒蔵の姿も見られ、
博士がとても愛されました「梅花黄連(バイカオウレン)」も
毎年清楚に花咲いているということでございます。

草木の精となられた博士が、
まだ肌寒い初春の梅花黄連の咲く頃に・・
たくさんの草木の精達と故郷の佐川町にもどられ、たわむられ、、
そして、高知の春がはじまる・・・
このように思うと、
ひとしおに、春の訪れを待ち遠しく思うのこの頃なのでございます。

                                           敬具




牧野富太郎は

1862年高知県高岡郡佐川町の裕福な商家に生まれました。

3歳で父、5歳で母と死別し、祖母に育てられた富太郎は、
生まれつき植物好きで、一人裏山で草木と遊ぶ少年だったといいます。
その後、私塾・郷校 名教館で西洋の諸学科を学んだのち、
学制で新しくできた小学校に入学しましたが2年で退学。
退学後は好きな植物採集をしたり書物を読んだりして過ごしました。
富太郎18才の時に出会ったのが、
西洋の植物をよく知る高知中学校教員・永沼小一郎でした。

永沼小一郎との出会いは
富太郎の学者としての資質を開花させ、植物学の世界に深く誘いました。

この頃に、上京し大学にも出入りしますが、
生涯独学で植物学を学び
日本中を踏査し数多くの新種を発見し,
27歳のとき日本で初めて新種ヤマトグサに学名をつけたのを始めに,
2500種以上の植物を命名し、
世界植物学者として大きな功績を残しました。

1957年94歳で永眠するまで
私財を投じて収集した蔵書に囲まれ、その研究意欲は衰えることはなく

自らを「草木の精」と称し、植物を限りなく慈しんだ、
まさに植物一筋の人生でした。


豪商で知られた実家の財産を使い果たしてでも、
植物への研究費を惜しまなかった富太郎、

13人の子供をもうけた寿衛子(本名 壽衛)夫人は、
経済的に富太郎の研究を支え、54歳で死去しました。
富太郎は新種のササに「スエコザサ」と名をつけ
「世の中のあらむ限りやすえ子笹」の句を詠んで永遠の感謝を捧げました。




梅花黄連(バイカオウレン)

バイカオウレンは牧野博士が学名を命名した植物で
早春に小さな白い花を清楚に咲かせます。
牧野富太郎博士の生家の裏山に咲き、
晩年東京で暮らした博士にとって故郷を思わせる懐かしい花でした。
バイカオウレンの葉は「高知県立牧野植物園」のシンボルマークとなっています。



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